名前がない!
どうも。3人目です。
何かブログに書こうと思いながらも、書けないまま時間だけが経ってしまいました。
書きたいことがないわけではなく、いやむしろ、日々思いついたことを書き留めておきたい気持ちは結構ありました。
それを妨げていたのが「名前がない」問題なのです。
3人で一つのブログをやっていく以上、「なんらかの名前を名乗ったほうがいいよな」となんとなく感じていました。
しかし私には名乗る名前がない。結果なかなか記事を書くことに取りかかれなかった。というところです。
「そんなの適当に名乗ったらいいじゃん」と思われるかもしれませんが、なかなかそうもいかないものです。
“本名”というのは気がひけるので、別の名前が欲しいところです。
そうすると名前を考えることになりますが、これが結構悩ましい。
「ペンネーム 決め方」あたりでググると、「自分の名前をもじる」だとか「自分が呼ばれてきたあだ名を使う」というような内容がゴロゴロ出てくるのですが、自分とっては役に立たないアドバイスでした。
もじりやすい名前でもないし、考えてみたら生まれてこの方、それらしいあだ名というのはなかったなあ。あだ名がある人うらやましい。
となると、何の脈絡もないところから好きな名前を取ってきて名乗るということになりそうです。
でもこれ、自意識が邪魔をするんです。端的にいって、なんか恥ずかしい。全然馴染んでない名前に体が拒否反応を起こす。なんらかの納得感が欲しくなる。
そうやって、あーでもないこーでもないと考えていくうちに、名付けの沼へどんどん沈んでいくわけです。
考えてみれば、「名前」というのは自分でつけるものではなく、「与えられるもの」なわけです。英語だと「given name」という言い方もありますよね。そんなものをわざわざ自分で考えなきゃいけないなんて、となんか嫌な気分になってきました。
もう考えても埒があかないので、適当に決めることにします。
いま辺りを見回して目に入った名前から拝借して「けいいち」とすることにします。決めました。なんかすごく恥ずかしいけど。
さて、ここまで名前についてあれこれ考えを巡らせてきたわけですが、その中で気づいたことが一つあります。
それは「名前を変える」ということは、イニシエーションの一種であるということです。元々、日本では元服の時に改名していましたし、カトリックだと洗礼の時に洗礼名をもらいます。
現代においては、芸名というのもその機能を果たしている例かと思います。落語家などのように、師匠から名前つけて貰えばそれは入門の証になるでしょうし、それは自分で芸名をつけるにしても同じことです。「これからこの世界で活躍してやるぞ」という気持ちの表れ、象徴と言えそうです。
つまり「名前を変える」ことは、次のフェーズに進むための決意表明ということです。
そう。私がこうして名前を決めたことも、決意の表れなのです。
名前の意味なんてどうでもよかったんです。決めることこそが重要だったのです。
そんなこんなで、ここまで言い訳と屁理屈を書き連ねてみました。
今後ともよろしくお願いします。