才能
どうも。
飲むのは胃カメラじゃなくて、ビールだけでいい。
そう思っているツキオです。
本編は3人が同じテーマ「才能」で記事を書く、という企画によるものです。
こんな大風呂敷を広げさせられているんだから、文章が取っ散らかるに決まっていますので、どうか期待せずに読んでほしいと思います。
さて、このタイトルで書く以上、「才能」とはなんぞや?という命題は避けては通れないと思ってるわけですが、これは結構答えるのが簡単そうです。
人間30歳にもなると、大抵のことには「こういうもんやろ」っていう仮の答えくらい持っているものなのかもしれません。
僕の中で、才能とは、「報われる保証がないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続できる力」です。
これは、自分の中でかなり腑に落ちてると言ってもいいと思います。
僕は大学生のころ将棋部だったんですけど、その将棋熱がMAXのときに出会ったのがこの言葉でした。これ、実は羽生善治プロの名言なんです。
この言葉に出会ったとき、「あ、これはひょっとしたら生涯の言葉になるかもな」という予感がありました。それくらいズシっと響いたんですね。
当時僕は毎日5〜6時間ほど将棋の勉強をしていました。それを2年くらいは続けましたから、僕は恥ずかしくも「自分には将棋の才能がある」などと思い、この言葉を噛み締めていたはずです。「自分には才能があるのかもしれない!」というちょっとした興奮とともに、この名言は僕の深部へ吸収されたわけです。(所詮人間は、自分に都合の良い言葉ほど、大切にする生き物なんですよ。)
しかし!私に突出した将棋の才能はありませんでした。(残念ながら)
だって、もう今となっては、1日5時間も将棋の勉強をしてませんから。えぇ、はい。
アマ4段程度、普通の将棋の強いおっちゃんです。ピンとこないでしょうからザックリいうと、アマ4段というと、“競技として本気で将棋に取り組んでいる人の中では並、平凡レベル”です。身も蓋もない言い方をすれば、たいしたことがない、わけです。
一応将棋は僕が人生の中で、最も情熱や気力や時間をかけたものの一つです。そう考えると、先の羽生さんの名言もまた違った見方ができます。
それはつまり、「報われないところで、情熱を燃やし続け、継続できること」なんて、普通の人はほとんど持っていない、ということです。
いや、あります?
「ずっと続けていること」。
しかも惰性ではなく、情熱を燃やしながら。
言い方を変えれば、真からの向上心をなくすことなく。
1年ならだれでもあるでしょう。
じゃあ、3年は?これもあるでしょう。
じゃあ、5年は?10年は?15年は?
あったら間違いない、それが才能です。
そこにあなたの才能があると思います。
(ちなみに僕は将棋歴20年以上ですが、本気の情熱、上達への無垢な渇望とともに将棋に打ち込めたのは、せいぜい5、6年ほどです)
ちょっと小難しいことを言うと、本当に才能を持っている人って「自分に才能がある」なんて思っていないんじゃないかな、と思うんですよね。
とにかく何かに夢中で、強くなりたくて、上手くなりたくて、勝ちたくて、日々努力と思うこともなく自分のやるべきことに打ち込んでいる、みたいな感じ。
そう、努力する人ってやっぱ2流なんですよね。本物は努力をしていなくて、(というか努力と思っていなくて)、ただそれに半永久的に夢中になれている、ハマっていられる、ってことじゃないかな、と思います。
努力ってたぶんどこかでできなくなるんです。だって努力って、「頑張っている」ってことだから。「頑張っている状態」って、言い換えれば「無理している状態」ってことで、それはつまり「自然でない状態」ってことだし、不自然は解消されるのが世の摂理だから・・・
でまぁ、そういう「不自然な状態」にないのが「1流」であり、「才能」なのかなぁて。書いててちょっと憂鬱になりますね!!ww
このへんで終わってもいいんですが、もう少し筆が滑りそうなので続けます。
僕は、20代の終わりにずっと転職活動をしました。転職活動っていうのは、けっこう色々と考えることがあって、その最たるものは「自分には何が向いているのか」という問いです。多くの人は、この問いを「才能」という言葉を使って変換したがりますね。「仕事の上で自分の才能を活かせる職場はどこか」と、こうなるわけ。
でもね、はっきり言って、そんな問いを発している時点で、才能なんてないわけ。
才能を問うものは、すべからくまだ真の才能には目覚めていない、と思うのです。(スーパードライより辛口!)だって、才能ってのは夢中状態の継続だから。「迷い」なんて、才能を得る心理状態とは正反対に位置している感情なんじゃないの、って思うわけです。だから転職活動で自分の才能をピンポイントで活かせる職場に入れる、なんて幻想ですね笑
転職活動に限らず、ぶっちゃけ、自分には才能なんてないって認めてあげてからが色んな意味でのスタートラインのような気がします。ありましたよね、スラムダンクに似たようなセリフが。「拙さを認めるのが一歩目だ」的な。逆説的に言えば、真に才能を求めるならば、まずは今ここの自分に才能がないことを受け入れる必要がある、とでもなりますか。
【補足】
ただ、一つ、才能についてポジティブな考えもあるにはあって、それは、個々人の才能が眠っている分野には、ある程度目印があるみたい、ということです。
・気がついたらやっていること
・子供の頃に好きだったこと
・自分では、たいしたことない、と思っているのに思いがけず人から褒められること
こういうのに当てはまれば、それは大きな才能に結びつくかもしれないらしいです。
(あくまで自己啓発によればです・・・)
【まとめ】
今日の話をまとめます。
・才能とは消えない情熱の炎
・打算的な人間は真の才能を知らない
・スラムダンクは人生の教科書
・ビールを美味しく飲める才能、発眼中
以上です!!
またね。(^o^)
ツキオでした。