ピアノとのシンクロ率

どうも。

ハラミちゃん推しのツキオです。

 

今日はピアノにまつわるあれこれについて。

最近、ピアノ弾いてみた系のユーチューバーの動画をよく見てて、「琴線に触れる」どころの騒ぎじゃない感じになっています。(そこのところ加味してね)

 

はじめに言っておくと、僕ね、ピアノと相性いいんですよ笑

弾けはしないんですけど、すごい相性いい楽器だなって思ってるんです、アイツのこと。(小学4年生まで習ってたし)・ω・

 

なんかね、ピアノの音がね、音という音のなかで一番グッと来るのよ。

ピアノの音にはスゥ〜っと心が引き寄せられるというかなんというか。

琴線の感度がピアノの音に対してだけ、ものすごく高い印象なんです。

 

 

さて、重松清の小説で「その日のまえに」という名作があります。

ガンに侵された妻を夫目線から描いた家族ものなんですが、

その中で、いよいよ妻が病院から出られなくなって、いつ危篤状態になっても

おかしくない、というシーンがあります。

 

夫は、子供の子守もありますから、自宅に帰ってそれまでの生活を続けようとするんですね。(妻の頼みでもあるんですが)

でも、もう妻の死は目前なんです。

今日でも明日にでも、病院の担当医から運命の電話がかかってくるかわからない。

それでも“一生分の涙を流した”彼は、その電話がなることを無意識的に受け入れようとしていくんです。

その電話の着信音に設定したのが、パッヘルベルの「カノン」でした。

「その通知は世界で一番綺麗な音で受けたかった」

みたいに書いてあるんですが、この時からですね、重松清のセンスと小説が放ちうる美しさに魅了されたのは。

で僕は、その小説を読みながら、実際に物語内で電話がかかってくるタイミングで「カノン」を聴いたわけです。

今でもはっきり覚えています。

その時は神聖な瞬間がユーチューブの広告に侵されるのが許せなくて、AppleMusicでお金払ってダウンロードして、神妙な感じで聴き入りました。

そして、それはなぜかピアノソロバージョンでした。

小説にそういう情報があったのかどうか定かではないですが、ピアノソロがとにかく一番ふさわしかったと思います、その音以外は欲してなかったなって。

 

「カノン」みたく強烈に僕の心に刻まれた曲は、あと数曲はあるんですが、それも全部ピアノなんですよ、不思議と。そしてそれらには歌詞がないんです。

だから、言いようを変えると、僕が本当に感動できる音楽ってピアノなのかなぁって。

音楽的素養のない僕でも唯一、深く吸い込めるのがピアノの音なのかなぁって(そろそろ書いてて恥ずかしくなってきた)

 

で、なんですが。

ここからが僕の変態的なところ。

素晴らしいもの、感動できるものを目にしたとき、どうしても「自分も発信側になりたい」「主体になりたい」って思っちゃうんです。

 

これ本当に迷惑というか困った性質なんですよね・・・

(小説書きたいとか、写真撮りたいとか、プログラミングしたいとか、全部こっから来てる・・・)

 

もう単刀直入に言わせてください。

 

ピアノって30歳からでも弾けるんですか!?笑

幸運なことに、嫁のピアノの先生から頂いたピアノがあるんですよ!!

これ、やってもいいやつですか?

やっちゃえ、日産ですか?

ご近所さん、夜勤されてる様子ですが、いいですか?

 

音楽ってたぶん人生の機微を一番うまく表現できる芸術様式なんですよ、きっと。

(小説・映画も負けてないけど)

 

だから、

子供の時にやってなかった

とか

センスが無いから

とか

時間がないから

とか

隣の人が夜勤してるから

とか

 

そんなクソしょうもない理由で折れる意味がわからんのですよね、こちらとしては。

 

A:人生の機微を最も上手く表現できるのは音楽である

B:音楽の中でピアノとのシンクロ率が最も高い

C:人生は一回しかない

 

∴ピアノするしかない

 

僕とピアノのシンクロ率が、

必ずしもシンジくんに勝てないと言い切れるだろうか。

 

 

はい、ということでね。

ピアノちょっと興味あります。

ケイイチさん、またピアノ話書いてよ。

 

じゃあ、またお会いしましょう。

またね(^^)

 

 

 

才能

どうも。けいいちです。

この名前、全然慣れません。でもしばらくこれでいきます。決めたんで。

 

今回のテーマは「才能」です。

正直、あんまり考えたことのないテーマがきたなという感触です。

 

このテーマを考えるに当たってまず考えるのは「才能とはなにか?」という、言ってみれば定義からでしょうか。

 

ここで思い出したのは、私の愛聴するラジオ番組『東京ポッド許可局』で論議された「折り紙折れない論」です。

『東京ポッド許可局』はマキタスポーツさん、プチ鹿島さん、サンキュータツオさんの3人の文系芸人が、時事ネタから割とどうでもいいことまで、あーだこーだ語るというという深夜番組です。

この回のテーマ「折り紙折れない論」はタツオさんから投げかけられたテーマでした。

あらましをかいつまんでいうと、

 

  • 折り紙が折れない。見たまんま作れない。絵を描くのも苦手。
  • 見たものをサラサラっと描くことを”自然にできている”人がいる。
  • この”自然にできている”ことを”才能”と呼ぶんじゃないか。
  • 才能は「ナンバーワンやオンリーワンになれるものじゃないといけない」という脅迫観念があるが、”自然にできている”からこそ気づいていない才能が多いんじゃないか。
  • 本人の意識していないところでたわわに実っていたものがポロッと出てくるものが”才能”。

 

というお話でした。

(多少違うところがあるかも知れませんが、だいたいの話はこんな感じだったと思います。)

私も絵を描くのが苦手ということもあり、タツオさんの話にいたく共感しながら聞いた記憶があります。

ということで、私にとっての才能の定義は「自然にできていること」ということになります。

つまりこれは「自然にできるようになるまでやってきた」ことの証でしょう。「好きこそものの上手なれ」ですかね。いつの間にか血肉化されていったもの。

そこに至るまでに「続けていけばなにかいいことがあるだろう」なんていう打算的な感情は全くないんだと思います。 ただ好きだから。ただ面白いから。それ以上の理由は必要ない。

 

あ、いま思い出しましたが、ピアノ教室に通っていたときにこれに近い感覚があったかも知れません。私は小さい頃から高校卒業までピアノ教室に通っていましたが、それは嫌で嫌で、完全に惰性で続けていました。でも最後の1年間だけは楽しかった。その理由はいろいろとあったと思いますが、

【楽しい→ピアノに触る時間が増える→できるようになる→楽しい→〜】

というサイクルがあったからだと思います。

このサイクルがグルングルン回っている人が「才能がある人」なんでしょうね。

 

うーん、でもやっぱり自分には「自然にできていること」なんてないかなあ。

でもそんなことで落ち込んでもしょうがないので、才能がない俺たちのアンセムRHYMESTERの『K.U.F.U.』を聴いて寝ようと思います。


才能

どうも。

飲むのは胃カメラじゃなくて、ビールだけでいい。

そう思っているツキオです。

 

本編は3人が同じテーマ「才能」で記事を書く、という企画によるものです。

こんな大風呂敷を広げさせられているんだから、文章が取っ散らかるに決まっていますので、どうか期待せずに読んでほしいと思います。

 

さて、このタイトルで書く以上、「才能」とはなんぞや?という命題は避けては通れないと思ってるわけですが、これは結構答えるのが簡単そうです。

 

人間30歳にもなると、大抵のことには「こういうもんやろ」っていう仮の答えくらい持っているものなのかもしれません。

 

僕の中で、才能とは、「報われる保証がないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続できる力」です。

 

これは、自分の中でかなり腑に落ちてると言ってもいいと思います。

僕は大学生のころ将棋部だったんですけど、その将棋熱がMAXのときに出会ったのがこの言葉でした。これ、実は羽生善治プロの名言なんです。

 

この言葉に出会ったとき、「あ、これはひょっとしたら生涯の言葉になるかもな」という予感がありました。それくらいズシっと響いたんですね。

 

当時僕は毎日5〜6時間ほど将棋の勉強をしていました。それを2年くらいは続けましたから、僕は恥ずかしくも「自分には将棋の才能がある」などと思い、この言葉を噛み締めていたはずです。「自分には才能があるのかもしれない!」というちょっとした興奮とともに、この名言は僕の深部へ吸収されたわけです。(所詮人間は、自分に都合の良い言葉ほど、大切にする生き物なんですよ。)

 

しかし!私に突出した将棋の才能はありませんでした。(残念ながら)

だって、もう今となっては、1日5時間も将棋の勉強をしてませんから。えぇ、はい。

 アマ4段程度、普通の将棋の強いおっちゃんです。ピンとこないでしょうからザックリいうと、アマ4段というと、“競技として本気で将棋に取り組んでいる人の中では並、平凡レベル”です。身も蓋もない言い方をすれば、たいしたことがない、わけです。

一応将棋は僕が人生の中で、最も情熱や気力や時間をかけたものの一つです。そう考えると、先の羽生さんの名言もまた違った見方ができます。

 

それはつまり、「報われないところで、情熱を燃やし続け、継続できること」なんて、普通の人はほとんど持っていない、ということです。

 

いや、あります?

「ずっと続けていること」。

しかも惰性ではなく、情熱を燃やしながら。

言い方を変えれば、真からの向上心をなくすことなく。

 

1年ならだれでもあるでしょう。

じゃあ、3年は?これもあるでしょう。

じゃあ、5年は?10年は?15年は?

あったら間違いない、それが才能です。

そこにあなたの才能があると思います。

(ちなみに僕は将棋歴20年以上ですが、本気の情熱、上達への無垢な渇望とともに将棋に打ち込めたのは、せいぜい5、6年ほどです)

 

ちょっと小難しいことを言うと、本当に才能を持っている人って「自分に才能がある」なんて思っていないんじゃないかな、と思うんですよね。

とにかく何かに夢中で、強くなりたくて、上手くなりたくて、勝ちたくて、日々努力と思うこともなく自分のやるべきことに打ち込んでいる、みたいな感じ。

そう、努力する人ってやっぱ2流なんですよね。本物は努力をしていなくて、(というか努力と思っていなくて)、ただそれに半永久的に夢中になれている、ハマっていられる、ってことじゃないかな、と思います。

 

努力ってたぶんどこかでできなくなるんです。だって努力って、「頑張っている」ってことだから。「頑張っている状態」って、言い換えれば「無理している状態」ってことで、それはつまり「自然でない状態」ってことだし、不自然は解消されるのが世の摂理だから・・・

でまぁ、そういう「不自然な状態」にないのが「1流」であり、「才能」なのかなぁて。書いててちょっと憂鬱になりますね!!ww

 

このへんで終わってもいいんですが、もう少し筆が滑りそうなので続けます。

 

僕は、20代の終わりにずっと転職活動をしました。転職活動っていうのは、けっこう色々と考えることがあって、その最たるものは「自分には何が向いているのか」という問いです。多くの人は、この問いを「才能」という言葉を使って変換したがりますね。「仕事の上で自分の才能を活かせる職場はどこか」と、こうなるわけ。

 

でもね、はっきり言って、そんな問いを発している時点で、才能なんてないわけ。

才能を問うものは、すべからくまだ真の才能には目覚めていない、と思うのです。(スーパードライより辛口!)だって、才能ってのは夢中状態の継続だから。「迷い」なんて、才能を得る心理状態とは正反対に位置している感情なんじゃないの、って思うわけです。だから転職活動で自分の才能をピンポイントで活かせる職場に入れる、なんて幻想ですね笑

転職活動に限らず、ぶっちゃけ、自分には才能なんてないって認めてあげてからが色んな意味でのスタートラインのような気がします。ありましたよね、スラムダンクに似たようなセリフが。「拙さを認めるのが一歩目だ」的な。逆説的に言えば、真に才能を求めるならば、まずは今ここの自分に才能がないことを受け入れる必要がある、とでもなりますか。

 

【補足】

 

ただ、一つ、才能についてポジティブな考えもあるにはあって、それは、個々人の才能が眠っている分野には、ある程度目印があるみたい、ということです。

 

・気がついたらやっていること

・子供の頃に好きだったこと

・自分では、たいしたことない、と思っているのに思いがけず人から褒められること

 

こういうのに当てはまれば、それは大きな才能に結びつくかもしれないらしいです。

(あくまで自己啓発によればです・・・)

 

【まとめ】

 

今日の話をまとめます。

 

・才能とは消えない情熱の炎

・打算的な人間は真の才能を知らない

スラムダンクは人生の教科書

・ビールを美味しく飲める才能、発眼中

 

以上です!!

 

またね。(^o^)

ツキオでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

名前がない!

どうも。3人目です。

何かブログに書こうと思いながらも、書けないまま時間だけが経ってしまいました。

書きたいことがないわけではなく、いやむしろ、日々思いついたことを書き留めておきたい気持ちは結構ありました。

それを妨げていたのが「名前がない」問題なのです。

 

3人で一つのブログをやっていく以上、「なんらかの名前を名乗ったほうがいいよな」となんとなく感じていました。

しかし私には名乗る名前がない。結果なかなか記事を書くことに取りかかれなかった。というところです。

 

「そんなの適当に名乗ったらいいじゃん」と思われるかもしれませんが、なかなかそうもいかないものです。

“本名”というのは気がひけるので、別の名前が欲しいところです。

 そうすると名前を考えることになりますが、これが結構悩ましい。

ペンネーム 決め方」あたりでググると、「自分の名前をもじる」だとか「自分が呼ばれてきたあだ名を使う」というような内容がゴロゴロ出てくるのですが、自分とっては役に立たないアドバイスでした。

もじりやすい名前でもないし、考えてみたら生まれてこの方、それらしいあだ名というのはなかったなあ。あだ名がある人うらやましい。

 

となると、何の脈絡もないところから好きな名前を取ってきて名乗るということになりそうです。

でもこれ、自意識が邪魔をするんです。端的にいって、なんか恥ずかしい。全然馴染んでない名前に体が拒否反応を起こす。なんらかの納得感が欲しくなる。

そうやって、あーでもないこーでもないと考えていくうちに、名付けの沼へどんどん沈んでいくわけです。

 

考えてみれば、「名前」というのは自分でつけるものではなく、「与えられるもの」なわけです。英語だと「given name」という言い方もありますよね。そんなものをわざわざ自分で考えなきゃいけないなんて、となんか嫌な気分になってきました。

 

もう考えても埒があかないので、適当に決めることにします。

いま辺りを見回して目に入った名前から拝借して「けいいち」とすることにします。決めました。なんかすごく恥ずかしいけど。

 

さて、ここまで名前についてあれこれ考えを巡らせてきたわけですが、その中で気づいたことが一つあります。

それは「名前を変える」ということは、イニシエーションの一種であるということです。元々、日本では元服の時に改名していましたし、カトリックだと洗礼の時に洗礼名をもらいます。

現代においては、芸名というのもその機能を果たしている例かと思います。落語家などのように、師匠から名前つけて貰えばそれは入門の証になるでしょうし、それは自分で芸名をつけるにしても同じことです。「これからこの世界で活躍してやるぞ」という気持ちの表れ、象徴と言えそうです。

つまり「名前を変える」ことは、次のフェーズに進むための決意表明ということです。

そう。私がこうして名前を決めたことも、決意の表れなのです。

名前の意味なんてどうでもよかったんです。決めることこそが重要だったのです。

 

そんなこんなで、ここまで言い訳と屁理屈を書き連ねてみました。

今後ともよろしくお願いします。

ワノ国が開国したら道化のバギーはどうなる

2人目の30代です。

先日1人目の30代が「天才」について書いてくれましたが、その中にチョロっと出てきた尾田先生の「ワンピース」について語ります。

最近のワンピースすごく面白いんです。

コミックは98巻まで発売されていて、今週のジャンプは1011話でした。

(細かくストーリーは追いませんが、若干のネタバレあるので、ご注意を)

連載では「ワノ国」という侍の国でルフィ達が激闘を繰り広げています。

「ワノ国」の存在が作中でハッキリ描かれたのはおそらく82巻位(2016年)。そこで初めて「ワノ国を開国せよ!」というセリフが出てきます。

この「ワノ国を開国せよ!」が物語の大きなテーマで、作中で謎とされている「Dの一族」や「空白の100年」とワノ国に深い関係がある(らしい)ことがここ数年の連載で明らかにされました。

ワノ国を開国すれば20年以上の連載で謎とされていたことが明らかになり、ルフィ達は最終目標である「ワンピース」に近づける訳です(おそらく)。

そして最近の連載で、ワノ国での激闘が佳境を迎えています。

ワノ国編が面白すぎて、コミックスを読むだけでは飽きたらず、毎週ジャンプを買うようになりました。

だから最近はずっと「ワノ国が開国したら何が起きるのか?」と考えながら、毎週ジャンプを読んではYoutubeの考察動画を見たりしています。

仕事がめちゃくちゃ忙しくて会社に籠っていても「ワノ国が開国したら何が起きんねん!?」と、ふと考えたりします。

2016年に「開国せよ!」って初めて言われて、5年近くかけてようやく近づく開国。

その間も絶妙な伏線が散りばめられては回収されて読者を飽きさせない訳です。

しかも尾田先生は「ルフィが無事にここを脱出できたなら(中略)ワンピース史上最も巨大な戦いを描くことになります。面白いです!!」と読者からの質問に答えています。「長い物語も、ちゃんと終わりに向かっている」とも。

おそらく尾田先生の頭の中にストーリーの大部分と、物語の完結の仕方がずっとあって、連載が続いてきたはず。

ワンピースの連載開始は1997年。

週刊連載という殺人的なスケジュールの中で、自分の頭の中だけにある物語を20年以上描き続けるってトンデモないことだと思います。体力、精神力、忍耐力とかも並外れていないとできないはず。

物語のラストは歴代の編集者に伝えられているらしいですが、例えば最後のコマはどんなコマで終わるかとか、ルフィの最後のセリフは何なのかとかは尾田先生の頭の中にしかないのでは?個人的には思ってます。

世界中の読者を相手にしながら、1人で物語を作り続けて漫画にしていく。それも20年以上。

そんなことができる尾田先生は「天才」だと思ってます。

今週のジャンプは合併号なので、ワンピースを読もうと思ったら、あと2週間待たないといけない。

今週も「ワノ国開国したら何が起きるんだろう?」とずっと考えてたし、来週も「ワノ国開国したら何が起きるんだろう?」と考えながらジャンプ発売を待つはず。

ちなみに個人的な話ですが、ワンピースを好きな女の子から、一番好きなキャラクターについて聞かれて、

「道化のバギー」って答えたら何故か爆笑された経験があります。

バギーもこの先の物語で出てくるはずだし、重要な役回りでは?と勝手に予想しています。

天才 ~異世界への案内人~

どうも。ツキオです。更新がとまりかけているので何か書かねばと思いつつ、日々の仕事がドシドシやってくるためなかなか書けずにいました。さらっと覚え書き程度に書いてみます。

 

いきなりですが、「天才」って何ですかね?。

 

「天才」と言われて誰を真っ先に思い浮かべますか?

 

月並みなことを言えば、アインシュタインとかエジソンとか。

ちょっとマニアなとこだと、悪魔の頭脳ジョン・フォン・ノイマンだとか。

 

まぁそれはいいとして。

なんていうか、最近、「天才」という言葉の守備範囲が変わってきてません?

っていうのが今回話したいことです。

 

「天才」って昔は(といってもほんの20年前くらいは)、頭がいい、とか、ひらめき力がある、とかそういったニュアンスだったと思うんです。すくなくとも僕は学生時代、そういう言葉として認識し、使っていました。通常より優れた知能を持つ者、常人が考えつないアイデアを持つ者、それが天才だ、と。

 

で、先日、「この人天才だわ」って思わずツイートまでしちゃったことがあって。

進撃の巨人』の作者、諌山創氏のことなんですが。

 

(今回はこのアニメの話をしたいわけではないのですが、しばしお付き合いを)

 

アニメ『進撃の巨人』は、現在、ファイナルシーズンの前編が終わったところで、この冬に完結予定です。ストーリーラインを追うことはしません(できません)が、これがとにかくスゴイのです笑

 

ここまで作り込まれて、緻密に伏線が張られて、キレイなどんでん返しがあって、メッセージ性を失わずに、かつキャラが立っている、っていうアニメを僕はなかなか思いつかないです。

 

諌山さんを称賛する声は、世界中に響き渡っているわけですが、その中に「天才だ!」という声がやたら多いんですね。みんなこぞって「天才だ」「天才だ」って言ってるわけ。で、なんというか、ファンの人たちは、称賛の声として、「天才」という言葉が一番しっくりくる!はまっている!と感じながらそう叫んでいるような気配、肌感覚があるんです。

 

これは、ワンピースの尾田さんにも、ある程度当てはまるんじゃないかな、という気がしてます。

 

それで、やっと気がついたんです。。。

 

あ、「天才」っていう言葉は、もうクリエイター達の専売特許になったんだ、って。

 

単に頭がいいだけの人のことを、僕らはもう「天才」とは言わないんだって。

Googleで検索するだけでわかっちゃうことを知っているだけで、「天才」だなんて、絶対呼ばないもんね法案】はとっくに施行済です。

 

それから、単にひらめき力があったり、人とは違うものの見方をしたりする人も、それだけじゃ、もう天才とは呼べないんだなって。

 

たぶん、今、僕らは、天才性を主に「創造力」に見出していると思います。

 

結論めいたことを言うと、僕ら(というか現代人)は、今、類まれな「想像力」と緻密な「説明力」からくる「創造力」を天才のコアイメージに置いていると思います。

 

ちょっと噛み砕くと、トンデモナイ構想とか世界観をちゃんと意味のある形(物語など)に仕立て、視聴者をご丁寧にそのトンデモワールドへ案内し、上手に&感動的に説明して、「ははぁ!」と納得してもらう。この一連の工程の良しあしを判断して、「天才」のラベルがはられてるんじゃないでしょうか。

 

このトンデモワールドは、常人の世界から遠く離れていればいるほど魅力的です。しかし、離れていればいるほど、「ははぁ、なるほど」と納得して楽しんでもらうことも難しくなるわけですね。

 

自分しか見ることのできない遠い世界を、鮮明に描く。

これほど難しいことはないわけで……

 

松本人志もイーロンマスクも、とおーーーくの世界、彼らにしか見えない世界を、我々にちゃんとわかるように提示してくれたからこそ、天才だと言われてるのかな、と思いますね。

 

天才とは、異世界の案内人たり

 

これが最近僕が思っていることです。

 

ここまで書いてて気が付いたけど、やっぱりこの定義においても、アインシュタインとかエジソンとか大天才だったわ笑

 

あれ?

となると、もしかして、天才っていう言葉の守備範囲ってやっぱりそんなに変わってないのか!?っていう身も蓋もない考えが急に浮かんできましたが、もうこのまま投稿します笑

 

僕も異世界の案内人になりたい人生だった!笑

 

ではでは、またお会いしましょう。

 

いま見ているドラマの話

はじめまして。3人目の30歳です。やや出負け加減ですが私もスタートです。よろしくお願いいたします。

 

なにについて書けばいいか迷いましたがとりあえず、毎週欠かさず見ているドラマ『俺の家の話』を見て思ったことをつらつら書き留めていきます。

TBS系で毎週金曜日の22時から放送されている、宮藤官九郎さん脚本、長瀬智也さん主演のテレビドラマです。

 

長瀬さん演じる主人公は、能楽師の家に生まれたけれど、いくら稽古を積んでもなかなか認められず、17歳で家出してプロレスラーになって、そこそこの活躍をしたものの、人間国宝の父親が倒れたことをきっかけに25年ぶりに実家に戻り、父の介護をしながら、宗家を継ぐためふたたび能の稽古に励む。といった具合のお話です。

 

プロレスが好きだからこのドラマを見始めたわけですが、いまではすっかりこのドラマに夢中なんですよ。

介護の問題とか、家・相続の問題とか、なかなかシビアな題材を扱ってるけど、これだけ毎週楽しめているのは、長瀬智也の「主役力」によるものだと思うんです。華があるといいますか、画面に映っているだけでなんか見ていられる感じ。これって一流レスラーにも言えることなんですよね。リングの上に立っているだけで期待感がある。場を支配する力がある。そういう意味でもプロレス的な見方ができるドラマです。

(あまり関係ないですが、プロレス的なヒールターンをきっちりと描いた場面もありました。)

 

しかもその長瀬さんがプロレスシーンも吹き替えなしでやっているというではありませんか!なんだかんだあって主人公は覆面レスラーになっているにも関わらず、ですよ。

先日放送された第7話ではショルダータックルを食らったところから跳ね起きして、カウンターの鮮やかなドロップキックを披露しています。これがまあ見事なもので、相手を蹴った後の空中の身のこなしは美しかった。

(さすがにラストのコーナーからの飛び技は違う人のような気がします。あの危険な技を素人にはさせないんじゃないかと。ただ「どこまでほんとに長瀬さんなんだろう」という気持ちで見ることが「プロレスを見る」という行為に通じるような気がします。)

 

でもそんな長瀬さんはこの春で事務所を退所して裏方の仕事をしていく、ということなんだそうです。おそらく連ドラはこの作品が最後になるんでしょう。ああ、この人の魅力にもっと早く気がつくべきだった。

 

昔からそうなんですよね。キリンジを好きになった時は泰行が脱退する直前だったし、「粋な夜電波」を聞き始めた半年後に番組が終わったり。

そりゃあこれだけ多くのものが記録メディアに保存されアーカイブ化されてりゃ、そこにはたくさん好きになれるものがあるわけで、タイガー&ドラゴン見たり、キリンジのCDを聞いたり、夜電波の過去の放送を聞いたりしていれば、それなりの満足感は得られるでしょう。それ自体が悪いことではないんですが、その時に思うんです。これをリアルタイムで体感したかったと。

メジロマックイーントウカイテイオーが対決した92年の天皇賞春のレースを見ることはできても、そこに至るまでの期待感や、NHKのニュースでも報道されたというような当時の空気みたいなものは体感することはできない。という感じですよ。

 

だからこそいま、このドラマをしっかり楽しんでやろうと思うんですよね。週明けに職場の同僚とあーだこーだ感想言いあったり、もう終盤に差し掛かっていて終わっちゃうのが寂しい感じとか、それでも次の回を心待ちにしているこの感覚も大事にしていきたい。長州力いうところの「今しかないぞ!」ってやつです。そんな気持ちで次の金曜日を待ちたいと思います。