桑田佳祐ブルーノート東京ライブの話

先日、『スラムダンク』について記事を書いた2人目の30代です。

 

桑田佳祐さんの配信ライブを見ました。見終わったばかりですが、本当に素晴らしいライブだったので興奮がさめない内に感想を書き留めておこうと思います。

 

これまで桑田さんのライブを生で見たのは2012年と2017年のソロツアー、2019年のサザン40周年ツアーの計3回。もちろん無観客配信で行われた去年6月と年越しの横浜アリーナでのライブも見ました。

 

(*ここからはセットリスト等、公演内容について触れているので、見逃し配信でこれから見る人にとってはネタバレになるのでご注意を。)

 

今回のライブの会場は東京・南青山にある老舗ジャズクラブ「ブルーノート東京」。ジャズクラブらしく序盤はジャズやブルースを思わせる曲が続き、アレンジを加えている演奏も多い。セットリストもいろいろ予想していたど、意外な選曲も多かった。時折聞こえる裏方スタッフの手拍子は、大型ライブのそれではなく、小さなライブハウスで演奏を聞いている感じがして素晴らしかった。

 

個人的なハイライトは中盤の『月光の聖者達』。2011年に発表された曲で、ビートルズの1966年の来日時のことを描いた歌とされている。歌詞の中に「ビートルズ」という単語は一度も出てこないけど、「切ないYeah Yeahの歌」とか「ビルの屋上の舞台で巨大な陽が燃え尽きるのを見た」という歌詞から桑田さんのビートルズへの思いを感じることができる。2010年に桑田さんが食道ガンの手術を受けた際、病床でビートルズの曲をずっと聴いていたらしい。「ひとりぼっちの狭いベットで夜毎涙に濡れたのは」のフレーズは闘病中に聞いたビートルズのことを歌っているのかもしれない。

 

この曲の終盤で桑田さんがしっとりと歌い上げた「現在がどんなにやるせなくても 明日は今日より素晴らしい」というフレーズは、コロナ渦の今のご時世にもぴったしハマるなぁと。

 

去年6月の配信ライブで披露された『真夏の果実』の「また逢えると言って欲しい」とか、『みんなのうた』の「いつの日か この場所で 逢えるなら やり直そう」というフレーズも失恋の歌なのに、コロナで大型ライブができない中で聞くとグッとくるものがあった。

 

きょうのライブ終盤で演奏された『悲しい気持ち』の「またいつか逢えたなら」のフレーズにも同じことを感じた。

 

「コロナで大変だけどガンバロー」と直接的に言っている訳でもないけど、「今はライブができないし大変だけど、またライブでみんなと会えるのを楽しみにしているよ」的な桑田さんの優しいメッセージを感じることができる選曲でした。

 

桑田さんのこういう言葉の使い方は本当に天才だと思う。

 

東日本大震災のあった2011年に発表された『明日へのマーチ』の「願うは遠くで生きる人の幸せ」という歌詞を「東北で生きる人の」と聞こえるようにサラッと歌う感じとかも。震災からまもなく10年となる中、今回のライブでも『明日へのマーチ』を歌ってくれた。それも決して押しつけがましい感じでもなく、サラッと歌う訳です。カッコいいなぁと。

 

そんな桑田さんは現在、65歳。2019年にサザンのライブを見た時に感じたけど、見に来ているファンは本当に老若男女という感じで、祖父祖母・親・子供の三世代で見に来ている人も結構いた。ファン層は広いし、まさに国民的アーティスト。

 

ずっとライブをやって欲しいと思う。配信ライブで桑田さんの素晴らしさに触れると同時に、こんなライブも見てみたいと思ったりもする。

 

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全員がサザンのファンという訳でもない大型フェスにトリで出てきて、ここまで会場を一つにできる人は中々いないと思う。

(こんなめちゃくちゃ密でアツいライブができる日がくるのだろうか?)

 

元気出したいときも、切ない気持ちの時も、気分が高揚しているときも、どんな精神状態の時もサザンや桑田さんの曲は聞ける。そういう普遍的な魅力がこの人の曲にはある。

 

今回のブルーノート東京からの無観客配信ライブを見ながら、「この曲アイツがカラオケでよく歌ってなぁ」とか、「スナックでこの曲歌うとウケたなぁ」とか思い出しながらそれぞれの曲を聞いていた。桑田さんが書く歌詞のような切ない思い出は、哀しいかなあんまり無いけど、それぞれの名曲や歌詞の一つ一つに個人的な思い出が紐づいていたりする。そんな風に桑田さんの曲はファンから聞かれてきたのではなかろうか?だからこそ40年以上、広い世代から聞かれ続けているんだと思う。

 

本当にずっとライブをやって欲しい。そんなことを感じながら約2時間の配信ライブを堪能しました。

 

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組織人 陵南高校・田岡監督の魅力

30歳になった同級生3人で運営するブログ。2人目の30歳からの投稿です。

 

今回のテーマは漫画『スラムダンク』。累計発行部数1億2000万部を超える不朽のバスケ漫画

湘北高校バスケ部に入った不良少年、桜木花道の成長を描いた物語。

 

バスケ経験は全くないけど、10代の頃は何度も読んでいました。

今年1月、原作者の井上雄彦先生から突然映画化が発表されたのをキッカケに、久々に読み返しました。


30歳になって読んだスラムダンクこれまであんまり意識したことはなかったけれど、新たに気がついたことが一つ。

 

それは陵南の田岡茂一監督の魅力。

 

(*連載開始が自分が生まれた1990年と約30年前の昔の漫画なので、ここからはネタバレ気にせず書きます。)

 

陵南は湘北のライバル校で、インターハイ出場をかけて神奈川県大会の決勝リーグで死闘を繰り広げます(この辺のストーリーはもはや説明不要ですね)。

 

湘北が激闘を制して、陵南はあと一歩の所でインターハイ出場を逃す訳ですが、陵南の田岡監督が記者から敗因を聞かれた際の言葉がめちゃくちゃカッコいい。

 

「敗因はこの私!! 陵南の選手たちは最高のプレイをした!!」

 

スラムダンクには「名言」が多く、それぞれ語り尽くせないほど魅力がある訳ですが、30代になり、サラリーマン生活にどっぷり漬かりはじめて田岡監督の言葉の魅力に改めて気がつきました。

 

「敗因はこの私!! 陵南の選手たちは最高のプレイをした!!」

 

田岡監督が「選手層がウスい!!」と侮っていた湘北の控え選手・木暮が試合を決定づける3Pシュートを決めたこと、「素人」として湘北の不安要素と見ていた桜木が勝負所で陵南からボールを奪ったことから「敗因はこの私!!」のセリフが出てくる訳です。

 

田岡監督の分析、敗者の弁は的確だけど、「敗因はこの私!!」って中々言えないセリフだと思うんです。

 

湘北の主将・赤木が陵南の主将・魚住とのセンター対決で力を見せたこと、湘北のスーパールーキー流川が陵南のエース仙道に負けない活躍をしたことなど、湘北が勝利して陵南が敗れた理由は決して一つではないはず。

 

それら全てを自分の責任として受け入れて田岡監督は「敗因はこの私!!」と話し、「陵南の選手たちは最高のプレイをした!!」と自分のチームの選手を称える訳です。

 

「監督」という組織を率いる人物の「敗因はこの私!!」のセリフから田岡監督の器の大きさが分かる。

 

例えば「会社」という組織に話を置き換えてみると、同業他社に負けたり、時代の流れに上手くハマれず業績が悪くなった時、「敗因はこの私!」と話せる社長や上司がどれだけいるか。。。組織を率いるリーダーとしてプライドもあるし、格好悪いところも見せにくい。。だからこそ「敗因はこの私」のセリフは重い気がします。

 

10代の頃は湘北の三井や流川、いわゆるスター選手 好きだったけど、

 

社会人生活も9年目に突入した今、スラムダンクを読み返してみて、「田岡監督って理想の上司だな」と思うようになりました。


今は陵南目線で試合を考えたりして、主将・魚住と田岡監督の回想シーンも泣けます。「でかいだけ?結構じゃないか(中略)立派な才能だ」とか。

 

高校スポーツと、サラリーマン的会社組織との違いはあっても、田岡監督はまさに「理想の上司」だと久々にスラムダンクを読んで感じます。

 

田岡監督を通じて理想の上司について考えると同時に「理想の部下」or「理想の若手」を考えてみると、やっぱり桜木花道だと思ったりもします。

 

インターハイ前の個人合宿で安西監督から「シュート2万本です」と課題を出され、「2万で足りるのか?」と言い返す桜木花道

 

これもサラリーマン的思考に置き換えてみると「ノルマは○○です」と課題を出されたら、桜木みたいに「○○で足りるのか?」とは言えず、言い訳しか出てこない気がします。「○○は△△の理由で無理です」みたいな。。。

 

30歳になって、そんなことを考えながらスラムダンクを読み返していました。

 

とりあえず、連載開始から30年以上が経った今、スラムダンクがどんな風に映画化されるのか非常に楽しみです。

 

田岡監督みたいな立派な組織人になるにはまだまだ時間がかかりそうですが。

 

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(先日の投稿を受けてビートルズを書こうかと思ったけど、また次の機会に)

 

by 2人目の30代

 

 

映画『Yesterday』の雑感 ~なろう系とモナ・リザとLet It Be の話~

どうも、はじめまして。月夫(つきお)です。

このブログの記念すべき初投稿です。

 

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子どもができてから、映画を見ることがめっきり減った(年に数本とか)のですが、先日稀有なことにガバッと時間が取れたので、『Yesterday』という映画を観ました。「重くない・ハッピーエンド・評価が高い」という高校生カップル並の基準で妻と選択した結果だったんですが、結構楽しめたし、新しい発見なんかもあったので雑記として記録しておくことにしました。

 

※以下ややネタばれ有りです。ネタとかあんまり気にならない映画ではありますが一応。概要を説明しないと話せないことが多すぎるので少しスト―リをなぞります。

 

売れない田舎のミュージシャン(主人公)とその幼馴染のマネージャー(彼らが結ばれることは開始5分でだいたい予想がつく)がいて、主人公は自分の才能に見切りをつけつつある。ある日、世界規模の大停電が起こり、そのせいで彼(主人公)は交通事故に遭う。目を覚ました彼を迎えたのは、ビートルズコカ・コーラが存在しない(歴史からも主人公以外の人々の記憶からも消えた)世界だった!!というもの。まぁ、現代世界を舞台にしたドファンタジーです。自分だけが世界で唯一ビートルズを知っている存在になるという。この設定がすばらしいですよね。ワクワクします。もちろんこの後主人公は、ビートルズの楽曲を武器に音楽家として大成功を収めていくんですが、まぁ、ちゃんと葛藤もあるわけです。盗作をする負い目とか、ダサいなりにのどかでお気に入りの町や人を捨てる苦痛とか、ね。最終的には『All Need Is Love』です、それで決着です(笑)それ以上は言えません。個人的にはディズニーを彷彿とさせる終わり方でした。もしかしたら、複雑な映画が好みの人にとってはちょっと淡白すぎるかもしれませんね。そこは個人差が出ると思います、はい。

 

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すみません前置きが長くなってしまったんですが、ここからが本番です。書きたかったことです。

 

まず一つには、この映画の設定、ストーリーの原型は、巷で流行っている「なろう系」そのものだな、ということ。「なろう系」とは、ライトノベルのジャンルのひとつです。最初から主人公がなんらかのチート能力を有していて、だいたい異世界に転生して、その世界で活躍する、というもの。この「なろう系」のストーリーモデルを映画でお目にかかることはあまりないので新鮮でした。

 

そもそも「なろう系」のストーリーモデルは、主人公の成長とか弱さとか葛藤が書きにくい(チート的存在ゆえに)ので、ストーリー構成としてはかなりイレギュラーです。ストーリー作りのタブーをおかしてしまっているとさえ言ってよいと思います。でも今それが世間で爆発的にはやっている。こんなことを言うと、品のない批評家みたいでイヤですが、本心だから言いますと、この「なろう系」が流行る理由には現代の閉塞的で鬱屈した空気感が関係しているんじゃないかなと思います。会社も学校も家も、どこにいても誰かに気を使い、何かを我慢し、耐え、息をひそめている。そんな雰囲気のことです。だからせめて空想の世界だけは、虚構の中くらいは主人公になりかわってヒーローをしたいし、無双状態を味わいたいわけです。「なろう系」を愛読する人の99.9%は主人公に自己を投影し、カッコいい自分、強い自分、称賛される自分を体感したいのです。そういう流れが映画に来ても全然変じゃない。というか自然な成り行きだなと思います。かく言う私も『Yesterday』を観ながら、やはりそう気持ちになりました。早く天才音楽家への転身と人生の大逆転劇、どよめく満員のスタジアムや、名曲に感極まる恋人の感動の涙なんかを見たくなるわけですね。

 

ここでストーリーモデルの話に一回戻るのですが、ストーリーはエンディングにカタルシスを用意しないといけない。でなければ立派なストーリーとはいえないわけです。カタルシス(浄化)のためには当然フラストレーション(欲求不満)が必要なのでそれを準備する必要が出てくる。これまでのストーリー構成であれば、はじめ主人公は弱く愚かなので、敵を用意するなり、ライバルを用意するなり、フラストレーションの都合はいくらでもつけられたのですが、「なろう系」はそうはいかない。もう能力的にも構造的にも完成形がそこにある(エンディングのお膳立てが仕上がってしまっている)わけだから、読み手に不自然に映らないように(主人公が最大限努力して富や名声や成功を追い求めているように)して、なおかつ失敗や挫折をさせなければなりません、そしてこれはかなり難しい芸当だな、と思うのです。見方を変えると、このイレギュラーなストーリーモデルの創造性は、このフラストレーションづくりにこそ現れると私は思っています。

 

そこに限って言えば、この映画はかなり秀逸でした。フラストレーションを個人的に滅茶苦茶ためたのは、主人公が始めて両親に『Let It Be』を聴かせようとする場面です。結論、いろいろと邪魔が入って果たされずに終わるのですが、ここのフラストレーション度合いはかなりなものでした。シンプルに『Let It Be』という名曲が聴きたいという感情も合わさって、見事に製作側の思惑通り、という感じでした。それで代弁するように主人公がたまらず言うわけですよ、「少し静かにしてくれ、今は、ダ・ヴィンチモナ・リザを完成させる瞬間なんだぞ」って。ここで主人公と私の気持ちが完全に重なってくる。冷静に考えれば、モナ・リザはちょっと言い過ぎだろ、と思うかもしれない(英国人にとってはそうでもないのかな)けれど、観ている最中は、ごもっとも!って(笑)他にもこちらのフラストレーションを煽る仕掛けがいくつもあって、そのおかげで最後まで楽しめたと思います。なんだかんだ言って、ストーリーの質は、いかに自然に、強烈にフラストレーションを高めて、いかにドラマティックorロマンティックorアクロバティックにそれを浄化するかに集約されるので、そういう意味でこの映画が高く評価されているのもうなずけると思いました。

 

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あと面白いな、と思ったのは、ビートルズというグループの神格化です。主要登場人物の中に、主人公の才能にほれ込んだアーティスト仲間としてエド・シーラン(本物です)、それから金にしか興味のないキレッキレのマネージャーがいます。この二人は明らかに比喩的な意味を持っていると思えます。つまり、エド現代の音楽界の牽引者(実力名声共にトップオブトップの存在)としての暗喩であり、マネージャーは、鋭く本物を嗅ぎ分ける音楽ファン(もしくはもっと広く世論)の暗喩です。そしてもちろん主人公はビートルズを背負っています。そう考えた時に、イギリスまたアメリカにおけるビートルズという存在の特殊さ、端的に言えば神聖さ、が浮かび上がってきます。

 

エドが作曲合戦で完敗するシーン。マネージャーが主人公に向かって言う「エドヨハネ(洗礼者)だけど、あなたはメシア(救済者)だ!」というセリフ。主人公が始めて『Yesterday』を弾き語りした時に『Fix you』(コールドプレイの名曲)みたいでいいね!と友人に言われて「一緒にするな!」と怒るシーン。どれをとっても、そこそこ現代のミュージシャン(直接的にはエドとコールドプレイ)に失礼な演出や表現をしています。(その他にも似たようなことは多々あります。)

 

そこを考えてみると結局考えつく先は一つで、「ビートルズは音楽の神様であり、現代と地続きのポップカルチャーシンボルであり、ビートルズを超えるアーティストは現代にはおらず、そもそもビートルズは同列の比較対象ではない」というコンセンサスが西欧文化には深くある、ということ。

 

私はそこまでビートルズのことは詳しくないから、疑問なんですが、ビートルズがその立ち位置にいまだにいるのってなんでなんですかね?素朴な疑問です。確かに名曲が桁外れに多いってこともあるけど、彼らが神になったのって音楽性によるところだけなのかな?それともグループや個人としてのストーリー性にあるのかな?どっちもかな?

 

この疑問をもう少し拡大化すると、人がシンボリックな存在(あるいは伝説の存在)になるための条件って何なんでしょうかね?ただのスターとシンボルの差というか、なんというか。

 

まぁ、このへんは私の次にブログ更新してくれる人が何か答えてくれるんじゃないかな(たぶんどちらもビートルズにはかなり詳しいはずだし)と思って期待しときます。(頼むよ!)

 

しょっぱなからとりとめもなく、だらだらとただ長い感想を書かせていただきました。

ではでは。月夫でした(^-^)またね。

 

※このブログは同級生3人で運営しています。それぞれの自己紹介やブログコンセプトはまた後日それように記事を作成する予定です。