映画『Yesterday』の雑感 ~なろう系とモナ・リザとLet It Be の話~

どうも、はじめまして。月夫(つきお)です。

このブログの記念すべき初投稿です。

 

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子どもができてから、映画を見ることがめっきり減った(年に数本とか)のですが、先日稀有なことにガバッと時間が取れたので、『Yesterday』という映画を観ました。「重くない・ハッピーエンド・評価が高い」という高校生カップル並の基準で妻と選択した結果だったんですが、結構楽しめたし、新しい発見なんかもあったので雑記として記録しておくことにしました。

 

※以下ややネタばれ有りです。ネタとかあんまり気にならない映画ではありますが一応。概要を説明しないと話せないことが多すぎるので少しスト―リをなぞります。

 

売れない田舎のミュージシャン(主人公)とその幼馴染のマネージャー(彼らが結ばれることは開始5分でだいたい予想がつく)がいて、主人公は自分の才能に見切りをつけつつある。ある日、世界規模の大停電が起こり、そのせいで彼(主人公)は交通事故に遭う。目を覚ました彼を迎えたのは、ビートルズコカ・コーラが存在しない(歴史からも主人公以外の人々の記憶からも消えた)世界だった!!というもの。まぁ、現代世界を舞台にしたドファンタジーです。自分だけが世界で唯一ビートルズを知っている存在になるという。この設定がすばらしいですよね。ワクワクします。もちろんこの後主人公は、ビートルズの楽曲を武器に音楽家として大成功を収めていくんですが、まぁ、ちゃんと葛藤もあるわけです。盗作をする負い目とか、ダサいなりにのどかでお気に入りの町や人を捨てる苦痛とか、ね。最終的には『All Need Is Love』です、それで決着です(笑)それ以上は言えません。個人的にはディズニーを彷彿とさせる終わり方でした。もしかしたら、複雑な映画が好みの人にとってはちょっと淡白すぎるかもしれませんね。そこは個人差が出ると思います、はい。

 

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すみません前置きが長くなってしまったんですが、ここからが本番です。書きたかったことです。

 

まず一つには、この映画の設定、ストーリーの原型は、巷で流行っている「なろう系」そのものだな、ということ。「なろう系」とは、ライトノベルのジャンルのひとつです。最初から主人公がなんらかのチート能力を有していて、だいたい異世界に転生して、その世界で活躍する、というもの。この「なろう系」のストーリーモデルを映画でお目にかかることはあまりないので新鮮でした。

 

そもそも「なろう系」のストーリーモデルは、主人公の成長とか弱さとか葛藤が書きにくい(チート的存在ゆえに)ので、ストーリー構成としてはかなりイレギュラーです。ストーリー作りのタブーをおかしてしまっているとさえ言ってよいと思います。でも今それが世間で爆発的にはやっている。こんなことを言うと、品のない批評家みたいでイヤですが、本心だから言いますと、この「なろう系」が流行る理由には現代の閉塞的で鬱屈した空気感が関係しているんじゃないかなと思います。会社も学校も家も、どこにいても誰かに気を使い、何かを我慢し、耐え、息をひそめている。そんな雰囲気のことです。だからせめて空想の世界だけは、虚構の中くらいは主人公になりかわってヒーローをしたいし、無双状態を味わいたいわけです。「なろう系」を愛読する人の99.9%は主人公に自己を投影し、カッコいい自分、強い自分、称賛される自分を体感したいのです。そういう流れが映画に来ても全然変じゃない。というか自然な成り行きだなと思います。かく言う私も『Yesterday』を観ながら、やはりそう気持ちになりました。早く天才音楽家への転身と人生の大逆転劇、どよめく満員のスタジアムや、名曲に感極まる恋人の感動の涙なんかを見たくなるわけですね。

 

ここでストーリーモデルの話に一回戻るのですが、ストーリーはエンディングにカタルシスを用意しないといけない。でなければ立派なストーリーとはいえないわけです。カタルシス(浄化)のためには当然フラストレーション(欲求不満)が必要なのでそれを準備する必要が出てくる。これまでのストーリー構成であれば、はじめ主人公は弱く愚かなので、敵を用意するなり、ライバルを用意するなり、フラストレーションの都合はいくらでもつけられたのですが、「なろう系」はそうはいかない。もう能力的にも構造的にも完成形がそこにある(エンディングのお膳立てが仕上がってしまっている)わけだから、読み手に不自然に映らないように(主人公が最大限努力して富や名声や成功を追い求めているように)して、なおかつ失敗や挫折をさせなければなりません、そしてこれはかなり難しい芸当だな、と思うのです。見方を変えると、このイレギュラーなストーリーモデルの創造性は、このフラストレーションづくりにこそ現れると私は思っています。

 

そこに限って言えば、この映画はかなり秀逸でした。フラストレーションを個人的に滅茶苦茶ためたのは、主人公が始めて両親に『Let It Be』を聴かせようとする場面です。結論、いろいろと邪魔が入って果たされずに終わるのですが、ここのフラストレーション度合いはかなりなものでした。シンプルに『Let It Be』という名曲が聴きたいという感情も合わさって、見事に製作側の思惑通り、という感じでした。それで代弁するように主人公がたまらず言うわけですよ、「少し静かにしてくれ、今は、ダ・ヴィンチモナ・リザを完成させる瞬間なんだぞ」って。ここで主人公と私の気持ちが完全に重なってくる。冷静に考えれば、モナ・リザはちょっと言い過ぎだろ、と思うかもしれない(英国人にとってはそうでもないのかな)けれど、観ている最中は、ごもっとも!って(笑)他にもこちらのフラストレーションを煽る仕掛けがいくつもあって、そのおかげで最後まで楽しめたと思います。なんだかんだ言って、ストーリーの質は、いかに自然に、強烈にフラストレーションを高めて、いかにドラマティックorロマンティックorアクロバティックにそれを浄化するかに集約されるので、そういう意味でこの映画が高く評価されているのもうなずけると思いました。

 

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あと面白いな、と思ったのは、ビートルズというグループの神格化です。主要登場人物の中に、主人公の才能にほれ込んだアーティスト仲間としてエド・シーラン(本物です)、それから金にしか興味のないキレッキレのマネージャーがいます。この二人は明らかに比喩的な意味を持っていると思えます。つまり、エド現代の音楽界の牽引者(実力名声共にトップオブトップの存在)としての暗喩であり、マネージャーは、鋭く本物を嗅ぎ分ける音楽ファン(もしくはもっと広く世論)の暗喩です。そしてもちろん主人公はビートルズを背負っています。そう考えた時に、イギリスまたアメリカにおけるビートルズという存在の特殊さ、端的に言えば神聖さ、が浮かび上がってきます。

 

エドが作曲合戦で完敗するシーン。マネージャーが主人公に向かって言う「エドヨハネ(洗礼者)だけど、あなたはメシア(救済者)だ!」というセリフ。主人公が始めて『Yesterday』を弾き語りした時に『Fix you』(コールドプレイの名曲)みたいでいいね!と友人に言われて「一緒にするな!」と怒るシーン。どれをとっても、そこそこ現代のミュージシャン(直接的にはエドとコールドプレイ)に失礼な演出や表現をしています。(その他にも似たようなことは多々あります。)

 

そこを考えてみると結局考えつく先は一つで、「ビートルズは音楽の神様であり、現代と地続きのポップカルチャーシンボルであり、ビートルズを超えるアーティストは現代にはおらず、そもそもビートルズは同列の比較対象ではない」というコンセンサスが西欧文化には深くある、ということ。

 

私はそこまでビートルズのことは詳しくないから、疑問なんですが、ビートルズがその立ち位置にいまだにいるのってなんでなんですかね?素朴な疑問です。確かに名曲が桁外れに多いってこともあるけど、彼らが神になったのって音楽性によるところだけなのかな?それともグループや個人としてのストーリー性にあるのかな?どっちもかな?

 

この疑問をもう少し拡大化すると、人がシンボリックな存在(あるいは伝説の存在)になるための条件って何なんでしょうかね?ただのスターとシンボルの差というか、なんというか。

 

まぁ、このへんは私の次にブログ更新してくれる人が何か答えてくれるんじゃないかな(たぶんどちらもビートルズにはかなり詳しいはずだし)と思って期待しときます。(頼むよ!)

 

しょっぱなからとりとめもなく、だらだらとただ長い感想を書かせていただきました。

ではでは。月夫でした(^-^)またね。

 

※このブログは同級生3人で運営しています。それぞれの自己紹介やブログコンセプトはまた後日それように記事を作成する予定です。