才能
どうも。けいいちです。
この名前、全然慣れません。でもしばらくこれでいきます。決めたんで。
今回のテーマは「才能」です。
正直、あんまり考えたことのないテーマがきたなという感触です。
このテーマを考えるに当たってまず考えるのは「才能とはなにか?」という、言ってみれば定義からでしょうか。
ここで思い出したのは、私の愛聴するラジオ番組『東京ポッド許可局』で論議された「折り紙折れない論」です。
『東京ポッド許可局』はマキタスポーツさん、プチ鹿島さん、サンキュータツオさんの3人の文系芸人が、時事ネタから割とどうでもいいことまで、あーだこーだ語るというという深夜番組です。
この回のテーマ「折り紙折れない論」はタツオさんから投げかけられたテーマでした。
あらましをかいつまんでいうと、
- 折り紙が折れない。見たまんま作れない。絵を描くのも苦手。
- 見たものをサラサラっと描くことを”自然にできている”人がいる。
- この”自然にできている”ことを”才能”と呼ぶんじゃないか。
- 才能は「ナンバーワンやオンリーワンになれるものじゃないといけない」という脅迫観念があるが、”自然にできている”からこそ気づいていない才能が多いんじゃないか。
- 本人の意識していないところでたわわに実っていたものがポロッと出てくるものが”才能”。
というお話でした。
(多少違うところがあるかも知れませんが、だいたいの話はこんな感じだったと思います。)
私も絵を描くのが苦手ということもあり、タツオさんの話にいたく共感しながら聞いた記憶があります。
ということで、私にとっての才能の定義は「自然にできていること」ということになります。
つまりこれは「自然にできるようになるまでやってきた」ことの証でしょう。「好きこそものの上手なれ」ですかね。いつの間にか血肉化されていったもの。
そこに至るまでに「続けていけばなにかいいことがあるだろう」なんていう打算的な感情は全くないんだと思います。 ただ好きだから。ただ面白いから。それ以上の理由は必要ない。
あ、いま思い出しましたが、ピアノ教室に通っていたときにこれに近い感覚があったかも知れません。私は小さい頃から高校卒業までピアノ教室に通っていましたが、それは嫌で嫌で、完全に惰性で続けていました。でも最後の1年間だけは楽しかった。その理由はいろいろとあったと思いますが、
【楽しい→ピアノに触る時間が増える→できるようになる→楽しい→〜】
というサイクルがあったからだと思います。
このサイクルがグルングルン回っている人が「才能がある人」なんでしょうね。
うーん、でもやっぱり自分には「自然にできていること」なんてないかなあ。
でもそんなことで落ち込んでもしょうがないので、才能がない俺たちのアンセム、RHYMESTERの『K.U.F.U.』を聴いて寝ようと思います。